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ちょっと、それって・・・

お知らせ (金, 18 5月 2012)

5月19日(土)18:15から渋谷アップリンクで上映される映画「Happy」の上映後、19:35~20:05まで「世界100か国を10年かけて見つけた幸せとは?」というテーマで話をします。 http://www.happyrevolution.net/archives/544 5月21日(月)13:00から、インターネット番組「エデュセッション!東大院生と教育の未来を語る」で、、勉強を教えない新しいスタイルの学習塾「プラスティー」の代表でもある清水章弘氏と教育について対談します。ライブ配信です。 http://www.ustream.tv/channel/i-edusession#
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映画『Happy ~しあわせを探すあなたへ』 (土, 12 5月 2012)

先日、映画『Happy』を観た。 個人的に幸せの研究をしている私にとって、「幸せ」「幸福」「Happy」というキーワードには敏感に反応する。 ただ、「幸せ」を題材にした映画となると、ありきたりな、ふわふわっとしたイメージで終わってしまうのかな、という先入観があった。 で、まず最初の感想。 この映画、私の本(『幸福途上国ニッポン』)を映画にしたら、こんな感じになるのかな・・・。というか、登場してくる心理学や脳科学の専門家の人たち、全員の文献を読んでるし、引用してる箇所なんかもほとんど同じ。さらに、日本の「過労死」も取り上げ、日本人の幸福度の低さについて問題定義もしている。半分ぐらいは、拙著の内容といっしょ!最新の科学的な幸福の研究に基づきながら、世界の人々を紹介している。 でも書籍では表現できない、映像ならではのインパクトも凄いと思った。 トラックに顔をひかれ、顔の半分が変形してしまった女性が、「今のほうが幸せよ」と微笑む姿にウソはない。本当の幸せのありかたについて、心に突き刺さった場面だった。 その他にも、インドのスラム街で生活する幸せな人々や、ブラジルの明るい老人サーファーなど、観ているだけでも幸せを共感できる人たちが沢山でてくる。 さすが世界16ヵ国を6年かけて取材したドキュメンタリーだけのことはある。 あえて言うと、「では、なぜ文化や社会体制の違いで幸せにも違いがでるのか?」という点については、疑問が残る作品でもある。でもそこまでをひとつの作品に求めるのは、ちょっと求めすぎかな。 少なくとも、いろいろと幸せについて考えさせられる作品であることは間違いない。 幸せに関心がない人はおそらくいないと思うので、誰にでもお勧めできる作品ですね。 5月12日(土)から25日(金)まで、渋谷アップリンクで公開してます! http://www.happyrevolution.net/
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参加者募集 (日, 06 5月 2012)

これまで毎月開催していた勉強会を、今月から全4回シリーズとして5月17日から開催します。 世界を5つのエリアに分けて世界紀行の談話を交えながら、世界の人々にとって幸せとは何か、そして人類に共通な幸せはあるのか、について考えていきたいと思います フェイスブックをやっている方はこちらから: http://www.facebook.com/events/381049771937165/ 【Well-being Lab.4回シリーズ】 ■目崎雅昭の世界漂流紀行■    ~グローバル化する社会で私たちは経験を共有できるのか~ 14世紀の大航海時代、海を渡り国境を越えた貿易が行われるグローバリゼーションが始まりました。 それから600年が経過する今、グローバル化は国家間という大きな枠に収まらず、地域や組織、そして個人をも飲み込んで進行しています。 その結果、私たちは時間や場所の壁を越えて人と繋がれるようになりました。更に、ゼロ年代以降はスマートフォンやSNSサービスの普及により、新たな情報との出会いに拍車をかけています。 14世紀、大航海時代に人々が見たグローバル化の未来…それは人々が様々な制約から解き放たれ、文化交流を通じた豊かなライフスタイルを手に入れることでした。 そして現在、私たちは豊かな生活を手に入れることはできたのでしょうか?グローバル化が日本にもたらした未来、それは表層的な人間関係が増え、絆をベースにした関係性を築けない「すれ違い」を感じさせる社会…ではないでしょうか? グローバル化時代に生きる…、それは日々巡り会う人から、経済、文化と様々な次元で自分の廻りをとりまく社会を見渡していくことに他なりません。  この講座では世界の政治や経済や文化へと目線を広げ、私たちが生きる社会を認識するための見取り図を作成していきます。 その上で、皆様が日常を見つめ直し、自分の価値観を変えていくための材料を提供していきたいと考えています。 ■講義計画(4回シリーズ) 第1回(5月)→アジア漂流紀行 〜瞑想の国は何を見ているか?〜 第2回(6月)→中東、アフリカ 〜寛容性のある社会について考える〜 第3回(7月)→南米、ヨーロッパ 〜多様性が存在する社会とは何か?〜 第4回(8月)→日本社会を振り返る 〜グローバル化についての考察〜 ■各回の形式 ・講義(60分) ・質疑応答(20分) ・シェアリングセッション(40分) ・懇親会(60分) 【5月定例会のご案内】 ●日 時:5月17日(木) 19:00~22:00 ●場 所:CERO 秋葉原 ●テーマ:アジア漂流紀行 〜瞑想の国は何を見ているか?〜 ●参加費:2,500円(1ドリンク・軽食付き) フェイスブックをやっている方はこちらから: http://www.facebook.com/events/381049771937165/ 参加ご希望の方は、フェイスブックから、もしくは以下のメルアドへ、参加希望の旨をご連絡ください。
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テレビ、雑誌 (水, 02 5月 2012)

先日、MXテレビに出演した時の写真をアップしました。 http://www.mezaki.info/media/ 先週発売のプレジデント(2012.5.14号)で、p81~83まで2ページ以上、幸福度について取材された記事が載りました。  「データが語る、なぜか不機嫌な日本人の不思議」 http://www.mezaki.info/media/ 5月9日23時からNHK BS1で放送予定の「エル・ムンド」に出演します。 http://www.nhk.or.jp/elmundo/
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TOKYO MXテレビ 「日本人の幸福」 (土, 21 4月 2012)

4月23日(月)21時から放送のTOKYO MXテレビ「ゴールデンアワー」に生放送で出演します。 「日本人の幸福」というテーマで、解説者の予定です! http://www.mxtv.co.jp/gold/
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語学ができない本当の理由と、克服の手引き (日, 01 4月 2012)

大学2年の夏、スイスのジュネーブで私はフランス語の短期留学をした。 私のクラスは、強烈な個性がひしめきあうジャングルだった。授業中に踊り出すブラジル人、ほとんど喧嘩腰で質問攻めをするアメリカ人、含蓄のあるうんちくを披露するドイツ系スイス人、そして口を開けばジョークしか言わないペルー人やスペイン人。 初めての留学経験でもあり、すっかり借りてきた猫となっていた私は、自分が異物のような感覚に襲われた。未知への期待を、巨大な不安材料がのみこんでいった。 先生に質問されたとき以外、私はほとんど発言しなかった。いつも観客席からの傍観だった。しかし心の奥では、積極的に好きなだけ、自然と発言ができる自分でありたかった。でも、どうしてもそれができなかった。 当時の私のフランス語は、第二外国語として少々かじった程度のレベル。そこで初日の授業は、先生の話す99%が理解できなかった。 もっと単語を暗記すれば自由に表現できるはず。そうやって自分自身に言い聞かせた。1週間で文法の教科書を一冊丸暗記し、単語も片っ端から覚えはじめ た。しかしすぐに、それが大きな勘違いだと気付かされた。 午前中の授業が終わり、クラスのみんなでランチをしていたときだった。クラスメートのほとんどが同年代の学生の中、みんなよりも2、3才年上だったスイス人が、ちょっと真面目な顔でみんなに問いかけた。 「ところでさあ、みんな、妊娠中絶は是か非か、どっちだと考えてる?」 ブラジル人が口火を切り、ぎこちないフランス語の議論が始まった。しばらく進むうちに、自然と英語に切り替わっていた。各自がそれぞれの意見を述べると、それまで黙っていた私に質問がきた。 「マサアキ、きみはいままで黙っていたけど、この問題についてどう考える?」 「へ?」 ちょっととぼけて、私は聞いてなかったふりをした。 「だからこの問題、妊娠中絶を、きみは賛成か、それとも反対のどっちなんだい?」 そんな問題など、生まれてから一度も考えたことがなかった。しかし何も意見が言えない自分が悔しく、苦し紛れにこう言った。 「ああ、ぼくは、反対はしないかな・・・」 その言葉には、なんの考察も込められていなかった。周りのほとんどが同年代の学生だったので、若いから仕方がない、という言い訳はできない。当時私の英語も下手くそだったが、語学の問題でもなかった。たとえ日本語で質問をされても、答えることができなかったからだ。 翌日のランチでは、話題は「死刑は是か非か」になった。 なるべく自分に振られないように目をそらしていたが、そうは問屋がおろしてくれなかった。 「マサアキ、君はどう思う?死刑について」 「あ、ああ、日本では、死刑は合法なんだけどね。は、は、は。そうだなあ、わかんないなあ・・・」 軽薄な対応しかできない自分が情けなくて、薄っぺらさに嫌気がさした。 「そうか。でも死刑制度ってのは、目には目を、歯には歯をみたいな、とても原始的な制度だと思うけどな」 スイス人がつづけた。しかしドイツ人が反論した。 「でもドイツでは、息子を殺された母親が、法廷で犯人を射殺するという事件があったんだ。で、のちの裁判では、母親はたいした罪に問われなかった。ドイツの世論は、母親に同情的な態度をとったんだ。時には殺人も正当化されるのだと・・・」 議論はつづいたが、私の頭の中は真っ白だった。何もいえず、黙って座っているのが精一杯だった。他のみんながそれぞれ意見を述べるたびに、一言一言が私をより深い劣等感へとおとしめていった。 私の劣等感は、肌の色や身体の大きさの違いからではなかった。彼らが自分自身であることを堂々と主張し、自分が軸となって生きているのに対して、それができない負い目からだった。 それまで私が日本で学んできたことは、過去の方法は何かを探り、常識やルールに従いながら「~らしく」することで、基準がいつも自分の外側にあった。だから私個人が何を感じ、何を考えるのかと、誰からも真剣に問われたことがなかった。そこで急に、知らないテーマを「どう考えるか」と尋ねられても、何も出てきようがない。 そんな、生まれ育った環境という自分でコントロールできないもので制約されていることが悔しかった。日本という文化で育ってしまったことを恨んだ。 もしかして、それは環境の問題ではなく、私自身の個人的な性格の問題だったのかもしれない。しかしすべてを自己責任とするには、やはり納得がいかなかった。できれば、環境のせいにしたかった。 ただしそれは、後ろ向きの姿勢ではない。「日本人として生まれて育ったのだから仕方がない」と、安易に諦めたくなかっただけだ。環境が私を抑圧してきたのであれば、この先の人生は、その抑圧を自ら解き放ってやればいい。 こうして、今まで教え込まれてきたことを脱構築し、再構築する日々がはじまった。 帰国後、世の中すべてについて「自分の意見は何か」という視点で積極的に考えはじめた。知識を増やすために情報を入手するのではなく、どう考えるかの材料として多くの情報を入手し、批判的な精神をもって頭をひねった。積極的にいろいろな人に議論をふっかけ、時には煙たがられもした。そして長期の休み中は、すべて海外ですごした。そうやって何年もつづけていると、だんだんと自分なりの意見が、どんなことに対しても自然と出てくるようになってきた。 そんなとき、語学力が飛躍的に向上していくのを実感できた。伝えたいことが山ほどあり、それを表現するための道具として、語学が必要不可欠になった。それ以来、劣等感も自然と消えていった。 その後、私はアメリカの大学で学び、外資系の企業で働き、ニューヨークやロンドンでも勤務した。そして10年近く世界中をくまなく旅し、旅の途中にイギリスの大学院で人類学を勉強した。大学院の授業では、私は分からないことをどんどん質問し、先生や他の学生と納得いくまで議論をした。世界中の人々と、夜通しで熱い議論をかわすことは日常茶飯事だった。各自が自己をしっかりと持ち、とことんまで話をしあう間柄だからこそ、国境も、人種も、年齢も、性別も意識せず、人間レベルで親しくなり理解しあっていく。 違う国や文化で育った人達とコミュニケーションをとる際、共通する事実の話は限られている。もちろん最初は、お互いの文化について情報交換すればいいかもしれない。日本のことをしっかりと説明できる能力も必要だろう。しかしそれだけでは、たいして間が持たないし、友情や愛情が育まれることもない。愛想笑いや、同じ釜の飯を食っただけでは不十分なのである。通訳や翻訳では、決して埋められない大きな溝がある。 自分が「こうありたい」という魂の叫びと、社会が「こうあれ」と要求するプレッシャーの狭間で、私は「こうありたい」をつらぬくために、いろいろと試行錯誤をしてきた。世界の共通語である英語は、そんな私を率直にぶつけても受け入れてくれる、広く寛容な世界へと橋渡しをしてくれた。 私にとって英語とは、国際交流というもの以前に、自分が自分でありつづける、正気を保つためのツールだったのかもしれない。
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同性結婚を認めるべきか? (日, 04 3月 2012)

前回投稿した記事「男と男、女と女が結婚できる社会が意味するもの」が大きな反響をよび、BLOGOS編集部が「日本でも同性婚を認めるべき?」という議論の場を作りました。 以下がリンクです。 http://blogos.com/discussion/2012-02-25/same_sex_marriage/ まだ賛否両論ありますが、こうやって議論がはじまること自体は進歩している証拠だと思います。 賛成、反対にかかわらず、どんな話題でも自由に議論できる社会であってほしいです。ネット上だけでなく、リアルの場でも同じように自由な議論ができればいいですね。
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男と男、女と女が結婚できる社会が意味するもの (金, 24 2月 2012)

<この投稿はアゴラおよび、BLOGOSに掲載されています> 友人にゲイの男性がいる。 彼と出会ったのは、戦争の傷跡が生々しく残るボスニアの首都サラエボだった。たまたま同じゲストハウスに滞在し、雑談しているうちに意気投合した。そのあと1週間ほど、バルカン半島を一緒に旅した。 彼が南、私が北へ向かうために旅路を別にした数日後、メールで彼は「そういえば、ゲイだったことを言ってなかったね」と伝えてきた。 見た目や話し方からはまったく想像できなかったし、そんな話題にもならなかった。しかし私が同性愛者ではないことは、それまでの会話から彼は知っていた。そこで私たちの友人関係にとって、彼がゲイであることは特別な意味がなかった。 その後、彼の母国ベルギーへ行ったとき、彼の家に泊めてもらった。そして私がパリとロンドンに住んでいたとき、訪ねてきた彼は私のアパートで泊まっていった。そして日本にも遊びに来た。 私たちは、政治、経済、哲学、文化、アート、スポーツに至るまで、なんでも話題にして、何時間でも議論をした。そしてゲイであることがどういうことなのか、という話になった。 ロンドンのトラファルガー広場で、周囲の人々を眺めながら彼は言った。 「世界のどこの社会にも、必ず同性愛者がいる。だからここから見える、こうやって集まった人たちの中にも、必ずある一定の割合で同性愛者がいるんだ」 彼は人々を指さしながら続けた。 「でも同性愛者って、なにも特別じゃないんだよ。女性の服装をしたり、性転換手術をする人もいるけど、多くの同性愛者は僕のように、外見はストレートの男性や女性とまったく変わらない。そういう人たちのほうが、実は世の中には多いんだよ。たとえば、君がワインが好きでウイスキーが嫌い、みたいな感覚で、僕は男が好きで、女に興味がないだけ。ただ、それだけの違いなんだ」 人にはそれぞれ、好みの違いがある。だから同性愛も、単に性的嗜好という好みの違いに過ぎないのだと、この時はじめて実感した。 * 先週の2月16日、アメリカでニュージャージー州の上院が、同性の結婚を認めることを賛成多数で可決した。これで同性結婚を認める州は8つ目になる。 世界を見ると、同性結婚が合法化されている国はたくさんある。北欧をはじめとする西ヨーロッパではほぼ全域で認められており、オーストラリア、ニュージーランド、カナダや、中南米でもメキシコ、コロンビア、エクアドル、アルゼンチン、ブラジルなどで合法である。(注:パートナーシップ法として、男女の婚姻とは別に、実質的に同等の権利を保障する場合もあり、国によって違いがある) これらの国には、ひとつの大きな共通点がある。個人にどれだけ多様な生き方が保証されているか、つまり社会がどれだけ「寛容」であるかだ。 同性結婚を認めている国では、ほぼ例外なく、男女の平等が世界でもっとも進んでいる。<男>とか<女>というカテゴリーではなく、「本人の意思」が優先され、尊重される社会なのである。それは「結果の平等」ではなく、「機会の平等」を保証しようとする動きにも重なる。 男性と女性は、生物として大きな違いがある。そこで社会が何もしなければ、男女の機会は平等ではない。だから同じチャンスが与えられるように優遇する制度をつくることは、男女が同じ土俵に立つまでの支援にすぎない。機会の平等を保証することで、あとは本人の意思と判断に任せるのだ。結果を同じにすることとはまったく違う。 社会学者のリチャード・フロリダは、同性愛者が住む地域は文化的にオープンで寛容性が高いため、さまざまな才能や人的資本を引きつけ、クリエイティブな人を多く輩出すると語っている。さらにそういった地域は、結果として不動産の価格も上昇するという。 リチャード・フロリダの理論は、大きな論争を巻き起こした。同性愛者の割合よりも、教育レベルの高さが都市の発展に強く関係しているという批判もある。コミュニティーというミクロなレベルで、経済発展と同性愛者の割合が必ずしも一致するかは分からない。しかし少なくとも、寛容なコミュニティーがクリエイティブであることは間違いないだろう。 そしてもうひとつ、とても重要な共通点がある。寛容度の高い国は、生活満足度や幸福度も高いということだ。 見た目が違う人を、差別なく平等に尊重することは、実は分かりやすい。もちろん現実は、世の中にはまだまだ差別が存在する。しかし、見た目の違いは誰にでも明らかなので、その差別を無くすことは、比較的に達成しやすい。 それよりも難しいのは、「意思や好みの違い」を認めることである。 どこの社会でも、同性愛者は目に見えない少数派だ。そこで多数決の原則に従うのであれば、多数派に直接的なメリットのない同性結婚が合法化されることは決してないだろう。 しかし寛容な社会とは、多数派が自分に直接関係がないことでも、少数派の意思を尊重し、権利を認めるのである。それに実際は、多数派にも大きなメリットがある。 あなたが人生で望むことは、すべてが多数派と同じではないだろう。いつあなたが、どこかの少数派に属しても不思議ではない。すべてが平均的な人間など存在しないからだ。 したがって少数派がリスペクトされる社会とは、多様な価値観が認められることであり、より多くの人々が、より自分の意思を実現しやすくなる。それは多数派にとっても住みやすい社会だ。それが「多様化」を推進する本当の意味であり、成熟した民主主義の姿といえる。 個人の違いが尊重される国民の、幸福度が高いのは偶然ではない。 さて、それでは、日本の現状はどうだろうか。 日本では、同性結婚など話題にも上がらない。それどころか、結婚していない親から生まれた子供(非嫡出子)の権利が、法的に差別をされている。また男女の平等を評価する「男女平等指数」では、日本は135ヵ国中98位で、一夫多妻を認めているイスラム教国と肩を並べている。ちなみに多くのイスラム教国では、同性愛者は死刑の対象となっている。そして日本の幸福度は、先進国で最低レベルだ。(参照:『幸福途上国ニッポン』目崎雅昭著) 「常識だから」が口癖ならば、「多数が正しい」と盲目的に従っていることになる。 「~らしくしなさい」と強要することは、多数派の型にはめようとする意図がある。 「みんなと同じにしなさい」は、違う人を排除する発想だ。 そういった表現が死語となり、歴史の一部として語られるようになったとき、はじめて日本が寛容な社会だといえるのだろう。そのときが来れば「人と違うことは素晴らしい」と、当たり前のように感じられるはずだ。 どこの社会にも必ず存在する、目に見えない少数派の人たちが、そんな社会に変革されたときの、生きた証人となるのである。
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お知らせ(講演会) (木, 16 2月 2012)

3月11日に、世界連邦フォーラムが主催する勉強会で、講演をします。 以下、詳細です。 ピースビレッジ第1回 「人を幸せにする社会と、そうでない社会。日本は幸福途上国か?」 講 師:目崎雅昭 時 間:14:00~16:30 会 場:日比谷図書文化館 4Fスタジオプラス(小ホール)      千代田区日比谷公園1番4号(旧・都立日比谷図書館) 参加費:会員2,000円 非会員3,000円 申 込:WEBから事前予約制。 http://www.wfmjapan.com/program/2012/03/11105128.php 支 払:講演当日会場にて現金でお支払い下さい。 主 催:世界連邦21世紀フォーラム 3・11からすでに1年が経とうとしています。しかし東日本に限らず、日本ではいまだに多くの問題が山積みです。そういったいろいろな社会問題を考えるとき、忘れてはいけない非常に重要な点があります。それは、最終的にどのような社会や国を目指すのか、という方向性です。つまり、何のために社会があり、国があるのか、という根本をしっかりと把握することです。そのひとつとして「人が幸せに暮らせる社会」は、究極的な目的となるでしょう。 では、どうすれば「幸せな社会」が実現するのでしょうか。近年ではブータンがよく話題に出ますが、私の個人的な意見として(実際に現地へ訪れたことも踏まえ)、メディアが実情以上に賞賛していると思います。しかし世界中の国々をいろいろな角度で見渡すと、実は一貫した「人を幸せにしやすい社会」の傾向が見えてくるのも事実です。どのような社会で人が幸せに成りやすく、また人を不幸にするのか、文化や社会の構造という視点から、個人と社会との関わりについて考えたいと思います。そして 「個人の幸福の追求」と「社会への貢献」が同じ延長線上にある「社会個人主義」を提言したいと思います。
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異文化を真に理解するためのボーダーライン (水, 01 2月 2012)

<この投稿は言論プラットフォーム・アゴラおよび、BLOGOSに掲載されています> ある日本人女性の話を紹介したい。 Sさんは、ネットで出会ったデンマーク人男性と結婚し、デンマークに移住した。それまでSさんは海外生活の経験はほとんどなく、語学も特別に堪能ではなかった。夫とは当初、英語でコミュニケーションを取っていたが、徐々にデンマーク語に切り替えるようになった。 現地での生活にも慣れてきたころ、Sさんは働きはじめることにした。 といっても、語学のハンデがあるため、現地の人と同じレベルで仕事を見つけるのは難しい。結局彼女は、日本食のレストランで働くことになった。 もともと真面目で責任感も強いSさんは、しっかりと仕事をこなし、すぐにみんなから信頼を得るようになった。店長からも強い信頼を得て、だんだんと彼女の存在なくして、店がまわらなくなるのほどになってきた。 デンマーク人の他の店員たちは、自分の勤務時間が終わると、たとえ仕事が中途半端でも、さっさと帰ってしまう。お客さんに対しても、サービスより自分の生活を優先するかのようだった。そこで、仕事のしわ寄せがすべてSさんにかかってきた。だんだんと彼女の仕事量は増えていき、周囲の人たちも、彼女に依存する度合いが増えてきた。 やがて店長がやり残した仕事まで、Sさんがやることになった。任されることに充実感はあったが、彼女の心には不満がだんだんと蓄積されていた。Sさんの仕事が増えていることに対して、周囲の人たちは、あたかも当然のように扱っていたからだ。 『私がこれだけみんなのために一生懸命に働いているのに、なんで私のことを理解してくれないの?』 Sさんは自分のやっている事を認めてもらい、できれば感謝の気持ちを表してほしかった。給料の問題ではなかった。 『デンマークのような個人主義の人たちは、あまりにも自分勝手すぎる。この人たちには、人の気持ちを理解する能力がないのだろうか?』 ある日Sさんは、すべての不満を夫にぶちまけた。 黙って聞いていた夫は、諭すように彼女に言った。 「周囲の人たちは、君が余分な仕事をしていることを、君が好きでやっていると思っているのだよ。だから感謝する必要はないでしょ」 そのひと言で、Sさんの世界観がガラガラと音を立てて崩れていった。 よく考えてみると、デンマークでは、社会的弱者や少数派への配慮は、日本よりも断然すすんでいる。個人を尊重するからこそ、みんなと違う人たちも同等に尊重するのである。街中で重い荷物を持っていると、見知らぬ人が当たり前のように、無言で手伝ってくれる。 相手に自分のルールを押しつけるのではなく、「本人が何をしたいのか」が優先され、それと社会のルールに折り合いをつけていくのである。それが彼らの「気遣い」であり、「やさしさ」となる。つまり、人が個として存在する根幹となる「個人の意思」への最大限の配慮なのである。だから自分の行動には、自分の意思が反映されていることが前提となる。 以上のエピソードには、もうひとつ大切な点がある。 海外に出た経験のある多くの日本人は、Sさんと似た経験があるかもしれない。しかしSさんの夫のような人と実際にコミュニケーションを取る機会がある人は、どれだけいるだろうか。もちろん友人でも構わない。要するに、文化の違いに戸惑いや疑問を感じたとき、それを率直にぶつけることができ、それに対して「彼らの弁明」をきちんと説明してくれる相手がいるか、ということだ。つまり、きちんとした「対話」の経験である。 文化人類学(イギリスでは社会人類学)では、20世紀初頭にポーランド人マリノフスキーが「参与観察」と呼ばれる、フィールドワークの手法を持ち込んだ。それまで人類学は、「机上の空論」的な要素が強かったからだ。マリノフスキーは、自らニューギニアのトロブリアン諸島へ足を運び、現地の言葉を学び、現地の人と同じ生活をすることで、現地の人々と同じ感覚で生活できるまで滞在をつづけた。 他の文化を真に理解するには、その文化の内側に同化する必要がある。他者の習慣を無意識に再現できるほど肌で感じられなければ、理解は表層的なもので終わってしまう。それは必ずしも、時間の問題ではない。たとえ何年も海外に住んでいても、ほとんどの時間を日本人と接し、日本のニュースやエンターテイメントを追うことに終始していたのでは、現地の文化を理解することは不可能だろう。 相手の文化の内側に入りながらも、外部としての視点を保つからこそ、その文化を客観的に分析できるのである。それは、日本を理解するために、日本のことだけを学んでも、日本を客観的にみることができないのと同じだ。 きちんとコミュニケーションできる相手と出会わなければ、「気が利かない欧米人とは付き合えない」などと、安易な結論で帰国してしまうのがオチだろう。身体は海外でも、頭の中は日本から出国していないのだから、日本以外のルールに適応できないのは当然だ。特に個人主義の世界を理解するには、対話が絶対に不可欠となる。それが一線を越えられるかの大きな鍵だ。 ただし、日本人の男性と女性で、一線を越えるハードルの高さは違う。 日本人女性の場合、たとえ語学ができなくとも、男は女性を獲得するために、いろいろと努力をしてくれる。だから最初は言葉が通じなくとも、結果として言葉を学び、生活習慣も学べる可能性が高い。 しかし日本人男性にとって、言葉が通じなければ、誰も努力して相手をしてくれない。ビジネスなどの、明確な利害関係がある場合は例外だが、それは所詮ビジネスの関係なので、相手も本音を出すことはない。その上、語学だけの問題ではない。普段からいろいろな事についてしっかりとした自分の意見がなければ、いくら語学を勉強したところで、相手との話題はすぐに無くなってしまう。 だから日本人男性で海外経験をしても、嫌になって帰国する人は少なくない。対話を経験せず、「あいつらとは理解しあえない」というレベルで帰国してしまう。とくに日本社会のエリートにありがちだ。そして「やっぱり日本が一番」と、内向きの発想になってしまう。それが劣等感の裏返しという自覚はない。 できれば学生として、早いうちに海外の経験を得たほうが、他の文化を理解できる可能性が確実に高くなる。学生同士ならば、話題がつづかなければ関係は継続されない。だからそこ、人間としての個人の魅力が問われてくる。 そんな環境で出来た友人ならば、どんなことでも話し合うことができる。お互いが自分自身をさらけ出し、時にはぶつかり合うことがあっても、それを認め合うことができるからこそ、本当の交流が生まれ、他の文化を理解できるのである。 盲目的で、排他的な愛国心ではなく、他の文化を肌で感じて心から理解するからこそ、自国を客観的に判断して心から愛することができるのではないだろうか。 日本を理解したいならばこそ、あえて海を渡り、彼らの習慣を学ぶべきなのだ。そうやって培ったものこそが、本当に健全な愛国心だと思う。
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新春ミーティング: 3.11から日本の未来を考える (水, 25 1月 2012)

先日、こちらでも紹介した「Well-being Lab 新春ミーティング: 3.11から日本の未来を考える」で講演をしてきた。 場所は、コワーキング・スペースCEROで、秋葉原駅の目の前に建つ古い雑居ビル。このビル、昭和のにおいが残るレトロ感がプンプン。最初に足を踏み入れたとき、「こんな場所?」と正直思った。 イメージとしては、整理されてない書類がそこいらじゅうに山積みになり、その裏で不健康そうなおじさんが黙々と仕事をしてる事務所が、ずらっと肩をならべているような雑居ビル。 それが、CEROのドアを開けると、別世界が広がっている。 このギャップがなかなか面白い。白い壁に原色の赤と青の家具がアクセントになっている。秘密の隠れ家にやって来た感覚になる。 会場には30名近い方々が集まり、「Well-being Lab 新春ミーティング: 3.11から日本の未来を考える」がはじまった。まず、司会の小笠原さん(写真右)のお話から、私の講演へ。 3/11以後、いまだに問題は山積みとなっている。しかし多くの問題は、日本全体の問題にも共通している。そういった問題を考えるときに一番重要なことは、最終的にどのような社会や国を描いているのか、というビジョンである。 人類にとって大きな課題のひとつとして、生き残りがある。しかし先進国となった日本では、生き残りだけでは不十分だろう。すると、つぎに重要となってくるものこそ、どれだけ幸せに生きるか、ではないだろうか。 なんだかんだ言っても、最終的に判断するのは、個人の主観である。それ以上でもそれ以下でもない。嬉しいことも、悲しいことも、どれだけ感動するかも、それは自分の主観で判断する。だから幸福は、主観で体験できる最高の感情ともいえるだろう。 人間と他の動物には、決定的に違うことがある。自らの存在に「なぜ生きているのか」と意味を問い始めたことだ。そのために、私たちには「生きる意味」が必要となる。これも主観の産物だ。だからこそ、私たちは自分自身の思考や感情を最大限に尊重しなければならない。 しかし現在の日本では、主観として「生活に満足している人」や、「幸せと感じている人」があまり多くない。驚くことに、それは1958年から変わっていない。経済成長とはまったく別の問題であり、格差や年金の問題などもほぼ関係ない。 それは、日本社会の本質的な、社会構造の問題なのである。 日本人で、「幸せに生きることが人生で一番大切」と思っている人はあまり多くない。幸せに生きることが最優先課題ではないのだから、当たり前といえば当たり前の結果だろう。 幸せは、個々人が主観で感じるもの。人それぞれが違う。だからこそ、個人に人生の決定権がなければ、その人生の満足度はあがらない。しかし日本の社会では、個人が好きなことをやるのではなく、いつも「場の空気」に従うことが要求される。だから個人の存在は、小さければ小さいほど良いことになってくる。だから「みんなと同じ事をするのが幸せだ!」という発想まで出てくる。 しかし結果として、日本人はあまり幸せを感じていない。誰がどう調査しても、結果はほとんど変わらない。日本の会社で務める社員の満足度も、あまり高くない企業が多い。これも一貫している。そして自殺率も非常に高い。 個人の満足度が高い社会では、個人の自由が尊重され、人と違うことが良いこととされる。つまり多様化が奨励されている。どんな立場の人であっても、その人なりの「幸せ」を追求することが尊重されているのである。 だからといって、個人が何でも好き勝手なことをやればいい、という話ではない。個人の権利を最大限に尊重しながら、社会との関わり合いを同時に達成する必要がある。しかし、それらは矛盾することではない。個人の欲求の中でも、社会に認められたい欲求や、人に感謝されたい欲求は非常に強い。「好きなこと」の中に「社会貢献」が入るひとは沢山いる。 そこで私は、社会個人主義を提言する。(詳しくはこちら) これこそが、今後の社会のビジョンとなるべきだろう。 ** 詳細と途中の話をほとんど省いたが、大体以上のような内容だった。 そしてつぎに、坪井久人さんがCharity Japanについての講演に入った。 (写真右が坪井さん) チャリティージャパンは、日本最大級の総合チャリティー情報ポータルサイト。サイトでは各分野で活躍している人々のインタビューなども掲載されている。坪井さんはまだ20代だが、積極的にこのような活動をしていることは、率直に素晴らしいと思う。 その後、参加者の方々と3つのグループに分かれて、対話を行った。 やはり大人数で質問を受けるよりも、小さなグループのほうが活発に発言する人が多くなる。議論は白熱していき、時間が終了した後でも、半分以上の人々がそのまま残って、終電間際まで議論はつづいた。 参加した皆様、たくさんの興味深いご意見をありがとうございました。小笠原さん、坪井さん、お疲れ様でした。そして主催して下さった長尾さん、堀畑さん、ありがとうございました!
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説明しないことが奨励される社会の、大きな代償 (月, 16 1月 2012)

<以下の文は、言論プラットフォームアゴラにも掲載されています> 「黙って、とりあえずやりなさい」 という表現をよく耳にする。 そしてブルース・リーの「頭で考えるな、肌でつかめ」は有名だ。 こういった姿勢はスポーツだけでなく、日本では勉強や社会道徳を学ぶことにも使われている。 しかし、これには実はとてつもなく大きな代償があることを見落としている。 たとえば、格闘技の世界を考えてみる。 格闘技で相手と対戦するとき、いちいち頭で考えている時間はない。反応するスピードが遅くなるからだ。だからこそ「肌でつかめ」の感覚を取得することは、達人の域に入ることになる。 しかし私が高校一年生で空手を始めたとき、先輩はきちんと「なぜ空手の突きは破壊力があるか」を、力学的に説明してくれた。全身のすべての筋力を効率よく動かすことで、パワーすべてを拳に集中する方法だ。「正拳突き」の威力は、単なる筋力の結果ではない。 技を取得する前に、理論的な裏付けに充分納得できただけでなく、なんとなくイメージも湧いたので、私は練習に没頭することができた。そのうちに、「どうすればもっとパワーのある突きや蹴りを出せるか」を、自分でも考えはじめるようになった。 もしも「リクツじゃない。黙って従いなさい」と言われ、ろくな説明も無しに練習をさせられていたら、私はあまり空手に魅力を感じなかっただろう。 そうはいっても最終的には、身体にしみ込むほどくり返し練習することで、「肌でつかめ」という感覚に達することは間違いない。しかし私が問題にしているのは、一番最初にどうやって意思決定をしているか、という点である。 別のたとえを考えてみる。ダンスの場合だ。 多くの日本人にとって、ダンスの基本形は「盆踊り」だろう。先日テレビで、ダンスが小学校から必修科目になる、というニュースを放送していたが、そのときダンスの指導者はインタビューで「ダンスは憶えることですから」と答えていた。つまりダンスは、「集団で音楽に合わせてあらかじめ決まった動きをすること」という認識なのだろう。 数年前、私はブエノスアイレスでタンゴを習っていた。タンゴは男性が100%リードするので、男性は特に多くのステップ(動き)をおぼえる必要がある。しかしアルゼンチン人のタンゴの先生は、「ステップは重要ではない。音楽を聴き、それをどうやって自分なりに表現するかだ」と力説していた。来日経験が何度もあるその先生は、「日本人の男性は、沢山のステップを知ってるひとはいるが、ダンスを踊ってる人は少ない」と語っていた。 たしかに私にとっての一番大きなハードルは、「音楽をどうやって自分なりに身体で表現するか」だった。青年時代にディスコ(古い?!)で踊っていたときは、本当に心から踊っている感覚はなかった。周囲の人たちの踊り方を真似て、なんとなくカッコイイと思われる形で動いていた。言うまでもなく、音楽を自分だけの解釈で表現することはなかった。しかし私がこれまで見てきた世界中の国々では、ダンスをする人たちはカッコイイかどうかは二の次で、率直に音楽を身体で表現していた。 ダンスの根本は、自分の意思を外側に発信する「内面の表現」だ。「音楽」と「身体の表現」は一対一ではないし、あらかじめ決められたものでもない。その時々の自分の感情や受け止め方によっても変化する。しかし私は、盆踊りの「音楽に従って決められた形をする」を刷り込まれて大人になってしまった。 もちろん日本の盆踊りは、文化としてきちんと存在意義があるだろう。しかし私にとって最初のダンスとしての盆踊りが身体の自由を奪ってしまったために、感情と身体が一致できない自分がもどかしかった。だからそのギャップを埋めるために、これまでいろいろと試行錯誤をした。インドで一年以上も没頭した瞑想も、自己の一貫性を取り戻すための修行だった。 冒頭でもふれたが、このテーマは運動だけの話ではない。 子供は誰でも、「どうして?」と質問をする。しかしその質問に対して、「うるさいから、黙ってやりなさい!」と大人が言い続けると、そのうちに子供は質問をしなくなるだろう。そして、黙って何でも親に従う子供は「よい子」として賞賛されていく。 すると、子供はそのうち「なぜ」という疑問さえ持たなくなってくる。その後は、「それが社会だから」とか「世の中はそういうものだから」以上に詮索するのをやめてしまう。周囲と同じ事をやっていれば、少なくとも批判されることはないからだ。 そうやって大人になった者は、今度は子供達から「どうして?」と質問されても、「そういうものだから」としか答えることができない。それ以上に「なぜ?」と聞かれると、「いいから、黙って従いなさい!」となってしまう。自分がそうやってきたのだから、当然といえば当然の結果だろう。 日本在住の外国人の友人から、こう指摘されたことがある。 「どうして日本人の母親は、いつもあれダメ、これダメと、ダメばかりいうのか?あれでは、子供が萎縮してしまうでしょう」 その通りだと思った。萎縮した子供は萎縮した大人になり、自分の外側にある「常識」に従うことを絶対視する。それは、自己が喪失していくことを意味しないだろうか。 「しつけ」とは、「既存のルールに盲目的に服従させる」ことではないはずだ。子供であってもきちんと説明をすれば、たいていは納得できる。納得しないなら、まず最初に説明が不十分だと思うべきだろう。もしも説明できないならば、それを自分が最初に憶えたときに、どうやって学んだのかを思い出してみるといい。おそらく、黙って服従した自分を発見できるだろう。 「納得しないことに従う」ことを幼少期から課すことは、成長の段階で本人の「意思」を抑圧することになる。誤解されないように強調したいが、「従うこと」自体が問題なのではない。「黙って従う」ことと、「納得して従う」ことは決定的に違う。 自分の心と体に一貫して「イエス」と言えることが、「納得する」という行為だ。しかし納得せずに、黙って従いつづけ、それが当たり前になってしまうと、自分の「意思」も限りなくゼロになっていくだろう。結果として、いくら形やルールを憶えたとしても、自分の意思を犠牲にするほど、そこに価値はあるのだろうか。本人の意思が軽視されることは、人間としての尊厳を失うことに等しい。 意思とは、ひとりひとり固有の、自分を自分としている最小単位の根源である。意思があるから、その人の個性が生まれ、人間としての魅力も出てくる。意思がなければ、それは魂のない人間と同じだろう。 仕方がないから。 それが世の中だから。 ダメなものは、ダメでしょ。 こういったものが口癖ならば、自分の「意思の存在」を疑う必要がある。 「それが日本人の国民性だ」 「日本の文化だから変える必要はない」 などと、安易な反論がでてくる場合も要注意だ。 そもそも文化とは何か。そして、何のために文化があり、なぜ社会が存在しているのか、という点にも疑問を持たなければいけない。「文化」や「伝統」という名の下に、どれだけの意思が潰されていき、どれだけの個性と人間性が犠牲になっているのか、見落とすべきではない。 日本には、「自分が本当に何をしたいのか、よくわからない」と言う人が多い。自分としっかり向き合っていなければ、分からないのは当然だろう。自分と向き合うためには、自分の意思を明確に知る必要がある。 もう一度、ここでくり返したい。「黙って従う」ことと、「納得して従う」ことは決定的に違う。自分で納得した規則やルールならば、それに従うことは苦にならない。それは社会のルールや法律も同じだろう。自分たちで社会のルールを作っているという自覚があれば、そのルールに従うことに誇りさえ感じるだろう。自分の意思が反映されているという実感は、「自由」という感覚にもつながってくる。 もしも今度、誰かに「つべこべいわず、黙ってやりなさい」と言いそうになったら、それは相手の魂を抑圧する行為だと自覚すべきだろう。そして、きちんと説明できない自分をもういちど見つめ直す、絶好のチャンスとすべきではないだろうか。
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お知らせ(参加者募集) (金, 06 1月 2012)

神頼みを一切やめてから、すでに20年以上は過ぎました。 だからといって、すべてが自分次第とは思っていません。 自分ができることを、簡単に放棄したくないと感じているだけです。 自分自身が弱い存在だと自ら実感しているからこそ、 己を甘やかさないための処置でもあります。 毎年この時期になると、そんな気持ちをあらためて確認しています。 さて、以下はお知らせです。 今月の1月19日、秋葉原にあるコワーキング・スペースCEROにて、 「Well-being Lab 新春ミーティング: 3.11から日本の未来を考える」 を開催します。 (Well-being Labは、長尾さんが代表の研究所です) 詳細は以下になります。 参加ご希望の方は、フェイスブックのアカウントをお持ちの場合はこちらから、それ以外の方は、以下のアドレスへお名前を明記してご連絡ください。 以下、FBサイトからのコピーです。 2011年3月11日、未曾有の大震災を通し、日本社会は今まで抱えていた様々な問題を一挙に露呈し、人々の意識や生き方を根元的に変えることになりました。 放射能流出からの風評被害、被災地への政府の対応状況に対する政治不信等が雪崩的に広がると同時に、被災地では少子高齢化や過疎化を抱えながら、復興・復活への第一歩となる2012年を迎えます。 今回は、「幸福途上国ニッポン」の著者・目崎雅昭さんと、チャリティ情報ポールサイト「Charity Japan」の運営者・坪井久人さんをお迎えし、今後どのようにして幸せな未来社会の青写真を描くのか?・・・参加者皆さんと共に考える時間にしたいと思います。 ■目崎雅昭さんからのメッセージ  3.11からの復興も含め、日本は社会としてどのようなビジョンを持つべきなのでしょうか。単なる経済発展だけでは不十分なことは明らかでしょうが、だからといって、資本主義を真っ向から否定することも得策には思えません。個人の幸福の追求と、社会の秩序や安定は、必ずしも相反するものではありません。どうすればそんな社会を実現できるのか、「幸福」をキーワードに「日本の未来ビジョン」を皆さんと一緒に考えませんか。 ■坪井久人さんのCharity Japan サイト  http://charity-japan.com/ ●日 時 : 2012年1月19日(木)19時~22時 ●場 所 : Coworking Place CERO 秋葉原 ●参加費 : 2,000円(ドリンク+お菓子付) ●定 員 : 40人(定員になり次第締め切らせていただきます) ●主 催 : Well-being Lab.(幸せ研究所)
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啓蒙とは何か (火, 20 12月 2011)

最近いろいろなところで、いろいろな年代の人々と話す機会が多くなっている。 すると、余計なことを説明しなくても話がどんどんと進む人もいれば、どんなに話をしてもまったく噛み合わない人もいる。 いくら意見が違ったとしても、自分の意見を持つことは非常に大切だ。大切どころか、人生において最重要課題と言ってもいいかもしれない。個人の意見がなければ、個性も人間性もなくなってしまう。 しかし日本の社会を考えてみると、自分の意見を持つことは、必ずしも良いとされていない。 「あなたは何がしたいのか」 と聞かれることもあまりないし、人に聞くこともないだろう。 「つべこべ言わずに、とりあえずやるべき事をやりなさい」 という空気が蔓延し、ひとりひとりが何を考えるかは極力排除され、社会のルールや常識が絶対視されている。 このような批判を展開していると、 「それは日本人の民族性なのだから、仕方がない」 と説明する人は少なくない。 日本には日本のやり方があり、個人が自立した西洋型の社会は合っていない、というありがちな意見だ。 私はいつも、それは文化の問題ではなく、人類が共通して直面してきた課題であり、それを西洋とか東洋という言葉で線引きすることがナンセンスだと思っている。 すると、1784年にドイツの哲学者カントが、『啓蒙とは何か』(中山元訳)の冒頭で以下のように述べているのを見つけた。 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。 未成年の状態について、カントはこう説明する 人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。 当時のドイツ人に対して「自分の頭で考えることが大事」とカントが力説しているのは、要するに、当時のドイツ人はあまりものを考えていなかった証拠だろう。 人間の怠惰と臆病にある。未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。 「考えないほうが楽だから」という話は、日本人からもよく聞く。 あらゆる場所で、議論するなと叫ぶ声を耳にする。将校は「議論するな、訓練をうけよ」と叫ぶ。税務局の役人は「議論するな、納税せよ」と叫ぶ。牧師は「議論するな、信ぜよ」と叫ぶのである。 これなど、今の日本で「つべこべ言うな。やるべきことを先にやりなさい!」とまったく同じだ。18世紀のドイツでは、議論がタブーだったのである。 私は確信していることがある。 日本人が議論ができないのは、そういう訓練を受けていないから、ということだ。民族性などは関係ない。だから訓練、つまり教育を受ければいいだけの話なのである。 ひとりひとりが自分の頭で考えれば、自然といろいろな意見が出てくるので、必然的に議論へと発展する。議論がタブーとされる社会は、考える個人が少ない証拠と言っても過言ではないだろう。 人と違う意見は素晴らしいのである。批判は大歓迎すべきなのだ。そうやって、いろいろな意見があつまるからこそ、人類としての英知が積み上がっていくのだ。 啓蒙には、自由がありさえすればよいのだ。しかも自由のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さえあればよいのだ。 自由のうちでもっとも無害な自由を、われわれはもっとエンジョイすべきだろう。そこに洋の東西は関係ない。 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)
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「幸福度に関するアジア太平洋コンファレンス」に参加して (金, 09 12月 2011)

経済発展だけでは人は幸せにならないことに、異論を唱えるひとは少ないだろう。しかし問題は、それ以外で分かりやすい指標がないことだ。 ちなみに先進国では、GDPと国民の満足度に相関関係は見られない。 世界の国際機関や政府は、近年になってGDP以外の指標を模索している。もちろん一番有名なのはブータンのGNH(Gross National Happiness 国民総幸福量)であるが、フランス、イギリス、そして日本政府も、幸福についての調査を真剣に取り組みはじめている。 「どうやったら幸福になるかは、個人がそれぞれ違うものだから、指標化することはナンセンス」、という意見もあるだろう。 そういった意見をふまえながらも、本当に幸福度を測ることはナンセンスなのか、それとも何らかの指標として作ることができるのか、心理学、脳科学、経済学、統計学など、いろいろな角度からの研究が世界中ですすめられている。 そんな研究者たちに加えて、各国の政策担当者、統計担当者ら約 250人の専門家が12月5・6日に世界中から東京へ集合し、二日間のコンファレンスが行われた。 日本から内閣府経済社会総合研究所(ESRI)、そして「先進国クラブ」と呼ばれるOECD(経済協力開発機構)、アジア開発銀行(ADB)、韓国統計庁(KOSTAT)、国連アジア太平洋経済社会委員会(UNESCAP)と、そうそうたる機関が主催するイベントである。 http://www.measuring-well-being.asia/jp/ そんなコンファレンスに、今回の登壇者のひとりでもある袖川芳之さんの紹介で、私も参加することができた。ちなみに袖川さんは、『幸福の方程式』(ディスカバー携書)の著者である。 会議の当日は内閣府特命担当大臣の古川元久氏のスピーチではじまり、各参加機関責任者、そしてブータンのGNH委員会担当長官Karma Tshiteem氏のスピーチがつづいた。(下記の写真は、ブータンのKarma Tshiteem氏) 当日のプログラムはこちら その後、3つの分科会に別れ、それぞれのテーマについての議論が行われた。ここからは同時通訳がなくなり、英語のみ。後で聞いた話だが、政府の予算の都合でそうなったらしい。 朝9時から18時まで二日間、じっくりと会議が進められた。 ここで会議の内容をすべて要約するのは無理があるので、印象に残った点だけを簡単に書きたい。 会議に参加した人々に、人生で「幸福」が非常に重要であることは、共通の認識だろう。しかし問題は、幸福をどうやって定義するかだ。 日本語でも「幸福」と「幸せ」は若干ニュアンスが違う。そして英語では、「Happiness」の他に「Well-being」が使われることが多い。各国の文化の違いによっても、それぞれの言葉の意味が違ってくる。ちなみに、このコンファレンスの英語のタイトルは「Measuring Well-Being and Fostering the Progress of Societies」で、Happiness ではなくWell-beingを使っている。 「Happiness」という単語では、あまりにも解釈が広くなってしまう懸念があるので、科学的に判定しようとする場合は、Subjective Well-being (SWB)が使われることが主流となっている。日本語の定訳はないが、主観的満足感、主観的幸福感、もしくはカタカナで主観的ウェルビーイングとでも訳したほうがいいかもしれない。 しかしSWBでもその解釈に仕方にばらつきがあるようだった。会議中でも、そういった部分を指摘する人が何人かいた。 細かい定義や相違を突っ込んでいけば、必ず例外や矛盾がでてくることは否めない。しかし私としては、もっとマクロな視点で統計結果を眺め、そして文化の差ではなく人類共通の部分に的を絞ることで、人類として普遍性のあることが見えてくると考えている。 拙著『幸福途上国ニッポン』は、そういったアプローチで、文化や社会構造によって個人の幸福度に影響をあたえる要因を探ったものである。 登壇者のひとりで、オーストラリアのクイーンズ大学のPaul Frijters教授は、私と似たような考えを持っているようだった。 Paul Frijters氏は190センチほどの長身にスキンヘッド、さらに黒いカウボーイハットを首にかけていたので、会場でもひときわ目立っていた。彼とは、コーヒーブレイクの時に話す機会があった。 私の持論である、日本人の幸福度が低い構造的な理由を説明すると、彼はすぐに「ああ、わかる、わかる。その通りだよ」と、同意をしてくれた。 そして私は、多くの人々に私の持論を説明する際、年齢が高くなればなるほど共感されにくくなっている、という事実も説明した。 すると Frijters氏は、 「そりゃ、そうだよ」 と、当たり前のように言い切った。 「30歳を過ぎた相手は、やめたほうがいいね。時間の無駄だから。だって、例えばなぜ警察官を採用するときに、25歳以下しか募集しないか分かる?25歳をすぎると、他の思考を受け入れることがとても困難になるからだよ。軍隊も同じだよね」 つまり30歳までに経験してきた世界観を、その後に覆すことはほとんど無理ということだろう。 そして彼は、こうも言った。 「君は日本のために、そういう本をどんどん書くべきだよ。日本の若者は、自分が幸せになるための言い訳が必要みたいだから」 よく考えてみると、私の個人的に親しい友人たちは、国籍を問わず、全員が「典型的なナントカ人」ではない。30歳になる前に多くは異文化で生活した経験を持ち、文化や社会を硬直的なものとは考えていない。そして自分や自分の住む社会を、一歩離れた視点で見ようとしている。 そして何よりも、国や文化を超越した人間としての根本的な共通項を見いだしており、それが友人としての絆となっている。 私は、「幸せ」も基本的に同じではないかと考えている。つまり、細かい言葉尻や表現に注目するのではなく、人類として共通に感じる「幸せ」は同じであろう。そして、それが重要と思う心もまた、普遍的な事実であると信じている。 だからこそ、個人の幸せを追求することが、人生にとって一番重要であるということも、また人類共通だと思っている。 もちろん「個人の幸せ」に、自分以外の幸せも含まれるという前提だが。 自分が幸せになれば、自然と他人も幸せにしたくなる。しかし他人のことを優先させてばかりいると、自分はいつまでたっても幸せになれないばかりか、他人も幸せにしない可能性がある。 それもまた、人類の共通項であろう。 .
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未来のグローバルリーダーへ (金, 11 11月 2011)

先日、「未来のグローバルリーダーを育成」している学校で、講義をしてきた。 講演内容はこちら 高校時代からの同級生、福原正大氏が学院長を務める、IGS(Institution for Global Society) だ。 簡単にいうと、世界の大学で通用する学生を育成している。(関連記事はこちら:第四の開国~ハーバード大学と東京大学の二兎を追え) 海外留学の支援というと、TOEFLやSATなどのテストを指導する塾と思われがちだが、こちらでは哲学的な思考や、英語でのディスカッション等を中心として、日本人が苦手となりがちなスキルを磨くことが主となっている。 学院長の福原氏自身、外資系の金融機関で取締役を歴任しただけでなく、フランスの大学院(INSEAD、グランゼコールHEC)などを卒業しているバリバリの国際派である。(福原氏のプロフィールはこちら) 金融機関でカネだけを追いつづける世界から、まったくの別世界である教育に参入した福原氏の心情には、私としても共感できるところが大いにある。 欧米の社会で、日本人が個人として存在感を発揮することは非常にむずかしい。しかしそれは、日本の教育によって個人が抑圧されている結果にすぎない。ならば、もっと個人を尊重する教育をすればいいだけの話だ。 日本には日本のやり方がある、という意見もあるだろう。欧米のマネをする必要などない、と考えるひともいるかもしれない。 しかし、個人が自立して自由を獲得していくことは、欧米でも一般化しはじめたのは19世紀以後の話だ。そして世界の歴史の流れとして、人類が普遍的に追い求めている傾向があることは間違いない。 古今東西、個人を抑圧しつづけて繁栄した社会は存在しない。 そして、個人を抑圧する社会では、その個人の満足度・幸福度が低いという結果もある。(参照:幸福途上国ニッポン) リーダーとは、必ずしも集団のトップである必要はないと思う。 自分が自分であることに誇りと責任をもつことが、リーダーとしての一番重要な要素ではないだろうか。 そして何よりも、まず最初に、自分が自分のリーダーであることだろう。 .
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ガールズナンデスTV (土, 05 11月 2011)

最近は、すっかりテレビを観なくなってしまった。 観たい番組があるときは、録画をして、あとで1.5倍速にして観ている。 もちろんCMはすべて飛ばして。 たとえば、ワールドビジネスサテライトは半分の30分で観ることができる。 たまにニュースなどを生で観ると、話すスピードが遅くてイライラしてしまう。 その代わりに、ネットに費やしている時間はどんどんと長くなっている気がする。 ニュースを読んだり、その論説や動画など、貴重な情報源はいくらでも出てくるからだ。 特にフェイスブックを通じて、世界各国の友人たちが「面白い」と感じた情報をシェアしてくれるので、それが面白い確率は非常に高い。 ところで、お台場TVという、フジ系列のネット番組がある。そこのガールズナンデスTVという番組に、私の古くからの友人が先日出演した。 22分ごろから登場するのが、ボイストレーナーの西めぐみさんで、GEM式ビジネスボイストレーニングという本も出版している。 偶然にも、彼女が番組で紹介している本『厳しい時代を乗り越える 強いリーダーがやるべき88のこと』の著者、福原正大さんは、私の高校時代の同級生だ。 福原さんは、未来のグローバルリーダーを育成するIGSという学校を運営している。 そして36分ごろからは、西さんが拙著『幸福途上国ニッポン』を紹介してくれている。(西さん、ありがとう!) 福原さんの学校では、近日中に私も講師として話をしに行く予定をしているので、その様子はまた後日にアップします。 (追記: こちらに当日の様子がアップされています) .
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成田国際高校での講演 (水, 26 10月 2011)

昨日、千葉県立成田国際高校の2年D組で、5,6時間目の授業中に講演をしてきた。 私の中学時代の同級生、組田幸一郎氏が英語を教えている学校だ。組田氏とは、バスケットボール部で一緒に汗を流した仲間でもある。 ちなみに組田氏は、英語教師をしながら、英語教育に関する書籍をすでに7冊も出版している。そんな彼のブログのタイトルは「英語教育にもの申す」だ。 彼とは最近、25年以上ぶりに再会し、今回私が講演することとなった。 「話が面白くなかったら、生徒が寝てもいいから」 と、講演の内容について私が半分冗談で言ったら、なんと彼はそのまま生徒に伝えてしまった。 「いつも僕の授業では絶対に寝させないんだけど、今回『寝てもいい』なんて言ったから、生徒は相当期待してるよ。よろしくね」 と、数日前に言われた。そして授業は午後の一番眠くなる時間。すごいプレッシャーだ。自分が高校時代の頃を思い出し、眠くなかった授業を思い出しながら、話を組み立てるしかない。 そのうえ、生徒の保護者も何人か来ることとなった。さらなるプレッシャー・・・。 さて、当日。 最初の5分が勝負だろうと思い、インパクトのある世界の写真を見せて、「ここはどこでしょう?」ではじめた。そして、現地で私がアホなことをやっている写真を織り交ぜた。 たぶんあまり馴染みのない中南米とアフリカが中心だ。ボリビアのウユニ塩湖、イースター島、ガラパゴス諸島、アフリカ各地の動物。なかなか食いつきはいい。 15分経過し、まだ寝てる生徒はいない。 次ぎに自己紹介を兼ねて、私が最初に海外に興味を持った経緯などを話す。高校時代の未知との遭遇だ。 あ、ひとり寝だした。 でも前列を陣取った男子生徒たちの目はまだまだ生きてる。 パキスタン、アフガニスタンの話から、アメリカの入国審査で私がアルカイダに疑われたエピソード等を紹介。 おお、もうひとり寝だした。 5時間目が終了し、休憩をはさんで6時間目に突入。 後半は、日本人と海外のひとびとの生き様の違いを、ゆるく説明しながら「幸せとは?」という、私の得意分野に話をもっていく。 あれ、またひとり寝てるよ。 でも、一番後ろに座ってる2人の保護者は、「うん、うん」とうなずいてくれてる。 最後は、私の熱いメッセージで終了。 組田氏いわく、あの時間で他の科目だったら、もっと寝ていても不思議ではないとのこと。まあ、上出来としよう。 講演の終了後、保護者も含めて生徒から、以下の感想をもらった。 41人全員の全文を掲載するのは無理なので、いくつか部分的に抜粋します。 「堅苦しい話を長々とされるのかと思っていましたが、世界各国の動物や、人や、場所や、その他にたくさん楽しいことを聞けて(見られて?)よかったです」 「私にはたくさんのなやみがあって、(中略)そのために今、勉強しています。しかし目崎さんの経験したお話を聞くと、私にも道はたくさんあるんだなと思わせてくれました」 「最初は眠くなるんだろうなあと思っていたけれど、話を聞いてみると、とてもおもしろい話で、夢中になってしまいました」 「途中寝ちゃったけど、すごくおもしろかったです」 「スライドショーの写真で、地球温暖化問題や貧困問題など、世界中にあふれている様々な問題を身近に、そして重く感じることができました」 「ああ、やっぱり(組田)先生の友達なんだと思いました」 「思ったより声が高かった」 「これまでは外国には行きたくないと思っていましたが、今日の話を聞いて、行ってみたくなりました」 「一番強く印象に残ったのは、英語ができるようになったら、日本語ができることが強みになるということです。(中略)とりあえず、自分で何をやるかを決めて、毎日頑張るということを学びました。私も世界で必要とされるような人になりたいと思います」 「これからの進路のこと、すごいなやんでいて、今も悩んでいるけど、本当にしたいことを職業にしたいと思った」 「今、好きなもの、したいこと、夢がある自分は幸せだと思った」 「俺も将来いろいろなところにいって、いろいろなものを感じ、面白い大人になりたいです。自分にウソをつくなと言われて、めっちゃひびきました」 「自分の今後の人生を深く考えたくなる話だった」 「今までの世界観の小ささに気付きました」 「英語をはじめ、世界についてもっと知りたいと思ったし、また世界だけでなく、日本や自分自身を改めて、今日挙がっていたような『自分に正直になる』という見方から見直してみたいと思った」 「私も、自分の好きなことと得意なことが一致するような将来の仕事をみつけたいなと思いました。そして今から、英語と読書を、まねしてやりたいと思いました」 「普段の生活じゃわからないような話をきけて、すごく面白かったです。新しい発見?みたいなのがあって、なんだか新鮮でした」 「短い時間だったけど、たくさんのことを学べました」 「世界を旅したくなった。夢を真剣に考えたくなった」 「自分の好きなことをみつけて、自由にやりたいと思った」 「幸せについて考えてみようと思った」 「周りの目や期待を気にするのではなく、自分の好きな事を結果はどうあれ、一生懸命にやればいい、という言葉がすごく心に響いた。それは今の学校生活でも、これからの人生においても自分のベースになる大事なことだと思う」 「私の考えが少し変わった」 「この地球上にある美しい景色は、いつか自分の目で見たいと思っています」 「世界には私たちの知らない美しい風景があるのだと思い、ますます世界に興味がわいてきました」 「目崎さんが拘束されたと聞いて、人生においてそういう武勇伝みたいなものが欲しいと思った」 「この機会をいかして、これからの人生につなげたいと思った」 「外国に行きたくなりました。私は星がきれいに見える場所にいつか行ってみたいです」 「貴重な体験の写真がたくさんあって、驚いたことがいっぱいでした。そんな世界を旅してきた目崎さんの言葉だからこそ、すごく胸に残りました」 「私は日本から将来出ることはないと思っていましたが、ぜひ、外国に行って物の見方や考え方の違いを知り、よりよい生活ができればいいなと思いました」 「私はまだこの先の進路が決まらずに悩んでいるのですが、お話をきいて少し考え方も変わったきがします」 「世界は広いと改めて感じました。『幸せってなんだろう』と、今まで考えたこともありませんでした」 「”国際人”って、こういう人のことを言うのかと思いました。外国の人からアドバイスを受けているようで、とても新鮮で面白かったです」 保護者の方からは、 「今日のこの時間が未来を担う子供たちの道しるべになったことと思います。」 「欲をいえば、もっといろいろな人に聞いてもらえたら、と思いました」 そして、私の感想。 もっと広い世界、そして「幸せとは何か」に興味をもってくれるきっかけになったのであれば、本当に嬉しいです。 「最近の若者が内向きになっている」という話はよく聞きますが、それは「外の世界がどれだけ面白いか」を伝える人が少ないからではないでしょうか。 幸せな人生を送りたくない人はいないと思います。どれだけ幸せになれるかという可能性を想像することができれば、あとは本人の決断次第です。 その可能性を若者たちに示すのが、私たち大人の役割ではないでしょうか。もちろん、大人が幸せに暮らしていなければ、そもそも話になりませんが。 成田国際高校2年D組のみなさん、そして保護者の方々、ご静聴ありがとうございました!韓国への修学旅行、楽しんできてください!!
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共感の文明 - 個人の利益と社会の利益のありかた (火, 13 9月 2011)

たとえば映画を観ていると、自分がすっかり主人公の気分になることがある。 また、人の悲しむ顔を見ると、自分も悲しくなってくることもある。 こうした人への共感や感情移入は、人間としてごく普通の行為だろう。 共感(Empathy)することは、実は人類の文明でも非常に重要な役割を果たしてきた。そして、「個人の利益」と「社会全体の利益」の両方をうまく達成させるには、共感がひとつの大きなキーワードになるのではないか。 共感するという行為がどのように進化し、そして将来はどのような役割を担うべきか、アメリカを代表する文明評論家ジェレミー・レフキン氏が、以下のビデオで非常に分かりやすく解説をしている。 (残念ながら、日本語字幕が付いたバージョンがないので、こちらは英語のみ) 以下、要約です。 共感するという行為が脳の機能として理解されたのは、ある実験の偶然の結果だった。猿の脳にミラー・ニューロンと呼ばれる神経細胞が発見され、人間にも存在することがわかった。 ミラーニューロンは、他人の喜怒哀楽を、あたかも自分が体験しているように感じることを可能にする。 人間にはいくつかの根本的な欲求があるが、「何かに属したい」という欲求は非常に強い。 生まれたての赤ちゃんは、一人が泣き出すと、つられて全員が泣き出す。 そして8歳ぐらいになると、「生と死」について理解できるようになる。それが存在という旅の始まりになる。 他人に同情することは、結束することにつながってくる。共感とは、ユートピアの正反対に位置している。つまり天国には共感は存在しない。なぜなら、天国には「死」も「苦しみ」も存在しないから。 つまり共感とは、死を認知して、生命を祝うことなのである。それは、私たちのもろさと不完全さが基盤となっている。 いかにして私たちの意識が人類の歴史を変えてきたかを考えると、共感は「見えざる手」なのである。 共感することは文明化であり、文明化は共感することである。 初期の人類にとって、共感する相手は血のつながった、自分の部族だけだった。 それが文明の発達とともに、ユダヤ人同士、キリスト教同士といった、同じ宗教である人々に共感するようになった。 産業革命後、それが国民国家へと広がっていった。19世紀以前には「ドイツ」や「フランス」といった概念は存在していない。それが、ドイツ人、フランス人という共感できる対象となった。 つまり、「血縁」=>「宗教」=>「国籍」 という順序で共感する範囲が広がっていった。 では将来的に、私たちは国籍を超えて、「人類」すべてに共感できるだろうか。 実際の例として、ハイチで大地震が起きたとき、世界中の人々はハイチの人々に同情している。 175,000年前に最初の人類がアフリカで誕生したとき、人口はわずか一万人ほどだった。その子孫として、現在の私たちのDNAには、すべての人々に同じ母親から受け継がれたミトコンドリアDNAが共有されており、同じ父親から受け継がれたY染色体が宿っている。 私たちは、人類すべてが大きな家族の一員であると考え始める必要がある。それは人類だけでなく、すべての生き物、そしてすべての生物圏まで広げる必要がある。 さもなくば、人にとっての他の欲求である「ナルシズム」「物質主義」「暴力」「攻撃」が人類を支配してしまう危険性がある。 共感の文明を創りあげていくことがこれからの私たちの大きな課題である。 * 私の提唱している「社会個人主義」は、個人の利益を追求する先に、社会的な利益との融合があることが基盤となっている。 社会性を強要されるのではなく、あくまで自発的に、社会的な活動を促すのである。 責任感や義務感ではなく、「自分が幸せになるから」という理由で社会貢献できる社会を目指すべきだろう。 共感するという行為は、それを可能にすることを示唆している。 .
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幸せつながり (日, 04 9月 2011)

幸福途上国ニッポン』を出版してから、「幸せ」をキーワードにいろいろと活動している人たちとの交流が増えてきている。 高校時代の同級生から、「会社幸福論というのをやってる後輩がいるから、是非紹介したい」と連絡をもらい、出会ったのが、ライフスタイルプロデュース荻野淳也さん。 荻野さんは現在、表参道アカデミーにて「会社幸福論 ~幸せな会社とは~」という講座を主催している。先日は、「いい会社に投資する」ことで最近話題になっている鎌倉投信の鎌田恭幸さんをゲストに迎えた日に参加した。 鎌田さんも以前は外資系金融で働いていたので、鎌倉投信の取り組みは非常に共感できる。そして私とは共通の友人も沢山いる。 金融という、カネだけを追求する世界に一石を投じるために、カネではなく「いい会社」へ投資する鎌倉投信を鎌田さんが立ち上げたのは、わずか一年ほど前の話だ。ハイリスク、ハイリターンではなく、300年社会に貢献する企業を支援するために長期投資をしている。 (鎌田さんの著書:『外資金融では出会えなかった日本でいちばん投資したい会社』) 重要なのは、やはり「なんのために会社があるのか」と考えることだろう。究極的には、働く社員、取引先、そして関係するひとすべての「幸せ」があるのではないだろうか。生き残ることだけでは不十分だろう。個人の人生でも、ただ生き残るだけでは不十分であるように。 先月哲学カフェで出会った和田さんは、生きるアシストというサイトを運営している。「今日よりも明日の日本が、誰にとっても生きやすい社会の実現を目指し、命について、みんなで考えて、集まり繋がることで、ひとつの命に寄り添い、支え合うこと」を目的としている。 要するに、幸せな社会をつくっていこう、という活動である。 そして先日、私はこのサイトのブレーントラスト顧問に就任することとなった。 (詳しくは、また後日に書きます) 先々月は、フェイスブックで「GNH幸せ研究会」というページを発見した。『幸福途上国ニッポン』が紹介されていたからだ。ページを作成した長尾吉彦さんは多岐にわたる活動をされており、先日は、幸福途上国ニッポンの勉強会を開催していただいた。著者としては非常にありがたい。違った世代の魅力的な人たちに集まっていただき、いろいろなお話をすることができた。 ちなみに勉強会が開催された場所は、四谷にある喫茶茶会記。住宅地の中で、それも舗装されていない道の奥にあるので、目指して行かないと絶対に見つからないような超穴場。 ここは文化サロンとして、いろいろなイベントが開催されている。民家を改造した、こじんまりとした店内にはアンティーク家具が無造作に置いてあり、雰囲気は満点だ。(写真はHPより転用) 参加していただいた人たちとの一枚。 今回ここに書いたのは、私が最近出会った「幸せつながり」の人たちのほんの一部に過ぎないが、これからもどんどん「幸せつながり」の輪が広がっていくだろうと思っている。 何のために生きているのか 何のために社会があるのか 政治は何のためにあるのか これらの答えに「個人の幸せ」を無視することはできない。 少なくとも、そう考えるひとが世の中には沢山いることは間違いない。 .
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小学生の金髪はアリか? (日, 21 8月 2011)

「うちのクラスには、金髪の子がいるよ」 小学4年生の甥っ子の話だ。外国人留学生の話ではない。その金髪に染めている生徒は、兄弟3人と、さらに親もみんな金髪らしい。 「そりゃあ、親がアホだな。だって、小学生が自分から金髪にしたいなんて思うわけないだろ」 そう言って切り捨てたのは、私の父だった。たしかに一理はある。ヤンキー風の両親の顔が目に浮かんだ。 「でも運動会のときに、その子が応援団をやりたくて、それならば金髪はやめろと先生に言われて、黒髪に直してたよ」 なるほど。すると運動会がなければ、その子はそのまま金髪だったのか。 しかし、ここで根本的な疑問が浮かんできた。そもそも、なぜ金髪にすることがイケナイのか。 小学生には必要ないから? でも、そもそも日本人で金髪や茶髪にする必要があるひとなどいない。必要か、必要ではないか、という判断でモノゴトを決めるのは、非常に強引である。美術も音楽も、娯楽すべては必要ではない。でも必要でないものがあるから、人生は楽しく有意義になるのではないだろうか。 服装・髪型の乱れは精神の乱れ? これは、個人を画一化するための常套手段だと思う。そこには「みんなが同じであることが正しい」という発想が根本にある。「ひとはそれぞれが違う」とはまったく逆だ。人を教育するにあたって、個性を潰すのが最良の方法と思っているのなら、話は別だが。 常識的に考えて、おかしい? こういう意見は、日本人の典型のような気がする。でも、常識って何だろう。みんなと同じか、そうでないか、という基準以外で、常識を定義できるだろうか。みんなと同じことが正しいことだと思う人がいるならば、それほど恐ろしいことはない。 どう考えても、小学生で金髪がイケナイという理由が思いつかない。 他に何かあるだろうか。 もしも何か思いつくならば、是非おしえて頂きたい。
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医者の役目とは? (月, 15 8月 2011)

フェイスブックでほとんど偶然に、高校時代の空手部の後輩ふたりとつながった。そして先日、23年ほどぶりに、それぞれと飲みにいった。 ひとりは某大物政治家の長男なので、最近父親の地盤を継ぐため(?)に、地元で秘書をやっている。高校時代は「木村一八と喧嘩をしたことがある」と豪語していた輩だ。 よく話をきくと、中山美穂主演の当時のドラマ『まいどおさわがせします』のロケを見に行き、パンツ一枚で走り回る木村一八を指さして笑っていたら、後で本人に呼び出されたらしい。そこで喧嘩になりそうになったところ、横から佐藤B作が止めに入ったというオチだった。 そんな人物なので、当時から態度がデカく、ふてぶてしい印象を与えることもあった。でも同時に、どこか憎めない、愛嬌のある性格でもあった。要するに、自分に素直に生きているだけなのだろう。個人的には、非常に好感の持てる生き方である。 結局、彼とは朝7時まで飲みながら、政治や社会についていろいろな話をした。駅の改札口の前でも話が終わらず、最後はその場で30分ほど話し込んだ。 もうひとりの後輩は、現在八王子の病院で院長をやっている。フェイスブックでつながるまで、彼が医学部にいって医者になったことさえ知らなかった。日本の医療を世界へ輸出する試みにも取り組んでいるらしい。 私の著書に共感してくれたようで、医療の現場でも集団主義からの脱却が必要と感じているとのことだった。 非常に印象的だった彼のひと言がある。 「医者の役目とは、患者を幸せにすることなんですよ」 私は激しく同感する。しかし現状は、多くの医師たちは彼と同じ意見ではないのだろう。それは、病気を治療する行為、つまり「マイナスをゼロまで戻す」ことが医者の役目と感じている人が多いからではないだろうか。 ちょっと話がそれるが、管総理大臣が国家の目標として「最小不幸社会」を掲げたときに、私は非常に大きな違和感をおぼえた。政治の役目とは、「個人が幸せになる社会」をつくることではないか、と思っているからだ。 もちろん、幸せを感じる要素は無限大にある。個人によって、どう幸せになるかは千差万別だ。だからこそ、自分で心底納得できる、自分だけの人生を選択できる環境をつくることが政治の役目ではないだろうか。それには寛容な社会が絶対に必要となってくる。(参照:幸福途上国ニッポン) そして一番重要なのが、本人の意志である。どうすれば自分が幸せになれるかを、自分で理解していなければ、選択があっても意味がない。 話を戻そう。 医者の役割とは、患者を修理するのではないと思う。私の後輩が言うように、患者の人生がどうすれば幸せになるか、それの手助けとして医療を使うべきではないだろうか。しかしそのためには、本人がどういう人生を望んでいるのかを、医師は知る必要がある。 しかし後輩いわく、現状はちょっと複雑だ。どのような治療をしようかと患者に相談すると、多くの患者は「先生にすべてお任せします」と答えるらしい。しかしながら、もしも医療ミスがあれば、容赦なく訴訟の対象となり責任を追求される。 どうやって病気に向き合うかは、ひとそれぞれが違って当然だろう。ひとりひとりの歩んできた人生が違うのだから、同じ病気でも治療方法が違うことが大前提とすべきではないだろうか。 しかし集団主義では、基本的に人と違うことを認めない。だから患者も先生も、顔のない壊れたロボットを修理するかのように、マイナスからゼロに戻すことに専念する。そこに、「幸せな個人の人生とはなにか」という、プラスの要因を考える判断基準が入る余地はない。 自分の人生は自分のものであれば、自分の病気をどのように治療し、果てはどのように死にたいかも自分で決定するのが当然であろう。 しかし集団主義というシステムでは、「本人の意志」は重要ではない。「みんなそうだから」という理由で、みんなと同じことを強要されてしまう。だから自分の人生が自分のものである、という意識も希薄になっていくのだろう。そのような人生では、幸せを実感でなくても無理はない。 私が拙著『幸福途上国ニッポン』で提唱している社会個人主義は、医療の世界にも必要な生き方といえるのかもしれない。
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FM軽井沢に生出演 (月, 08 8月 2011)

8月6日(土)12時から30分間、FM軽井沢で放送している「今日の軽井沢人」にゲストとして生出演しました。 放送の録音です。 DJの宮尾博子さんと 30分間を本の宣伝も兼ねて、しっかりと話をさせていただきました。 宮尾さん、ありがとうございました! .
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お知らせ(FM軽井沢) (木, 04 8月 2011)

FM軽井沢(77.5MHz)に8月6日(土)12時から出演します。 ネットでも生放送を配信しているので、以下のリンクからどうぞ。 http://www.simulradio.jp/asx/fmkaruizawa.asx .
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一枚の絵 (日, 24 7月 2011)

一枚の絵が、いろいろなストーリーを語ってくれることがある。 「こいつねえ、波に持っていかれちゃったんだよ・・・」 宮城県石巻市で被災した、男性の言葉だ。 NPO法人フラワーピーフルがボランティア活動の一環として、プライマル・ペインティングという絵の具を使って色を楽しむワークショップを開催した時のことだった。 (写真上: 「ほくと」を描いた男性) 会場では、大人も子供も一緒になって、「色の遊び」を体験。 ちかいうちに、出来上がった作品を展示する予定らしいです。 「ほくと」の絵が、どうしても頭から離れない。 こういう作品を販売できるなら、非常に有効な被災者支援のひとつになるのだろう・・・。 .
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